日本にいつ中国の伝統医学日が伝来したのか、定カで、はありません。
しかし、大陸文化の一つとして弥生時代には伝わっていたと考えられます。
記録に残る初めての医薬書伝来は、大和時代の562年です。
当時は、朝鮮半島を経由して人や物が交流していました。
遣晴使を皮切りに中国と直接交流するようになると、多くの留学生が最新医学を学んで日本に持ち帰りました。
医療の担い手となったのは、平安時代まではおもに貴族、武家社会では僧侶です。
かれらは日本独自のアレンジも加えましたが、お手本はあくまで中国の最新医学でした。
鎖国中の江戸時代には、中国医学の古典を重視する医師の一派が台頭、そこに独自の理論を加えた日本の医学が生まれます。
現在の「漢方」はこれを引き継いでいます。
開国した明治政府は西洋医学を採用し、教育も資格も西洋医学に一本化しました。
漢方は一気に衰退しますが、やがて見直され、約50年前の1976年、漢方エキス剤が健康保険に本格適用されると、治療法の一つとして定着していきました。

中医学・漢方の歴史

時代に合わせて変化をくり返す中国漢方漢時代(紀元前206-220年)は、中国文化が栄えた時期ですが、漢方もこの時代に確立されていきました。
漢方の3大古典といわれる『黄帝内経』『神農本草経』『傷寒論』が完成したのもこの時代です。
『黄帝内経』は陰陽五行説に基づく医学原典で、漢方の分野では最も重要な書物とされています。
その後は時代の変化に合わせて3大古典を発展させた医学書が次々と編纂されていきます。

1642年には「温病学」という熱感や炎症性の症状の治療という新しい理論も登場しました。
その後国家が進める近代化により漢方は冷遇されますが、中華人民共和国の成立によって見直され、現在は西洋医学と対等に位置づけられています。

左/明の李時珍によって書かれた「本草網目」約1900種の薬用植物。動物、鉱物の効能などを解説。
右/湯島聾堂神農廟の神籏木像。中国の伝醗上の帝王。神農は医薬の神としても知られる。

日本漢方薬の歴史

漢方薬は、中国の神農という神様が起源とされています。
神農は身近な草木の薬効を調べるために、自分らの身体を使って、草根木皮を嘗(な)め、何度も毒にあたっては薬草の力で蘇ったといわれています。
こうして発見した薬を、その後、中国最古の薬物書『神農本草経』としてまとめたものが、現代まで形を変えながら伝えられています。
『神農本草経』には、植物・動物・鉱物あわせて365種類が薬として収載されており、人体に作用する薬効の強さによって、下品・中品・上品(下薬・中薬・上薬ともいう)の3つに分類されています。

現存する世界最古の医学書「黄帝内経 素問」《上古天眞輪》に、「四季の変化をうまく取り入れて暮らしていたので、昔は推もが病気にならず、20~30代の若い身体や脳のまま100歳くらいまで長生きした」というようなことが書かれています。

日本に稲作が伝わったのは縄文時代の後・晩期とされていますが、稲作などの文化が伝わり始めたことで人々の生活様式が変化し、老化や病気が発生し始めました。

稲作伝来前の病気は、マッサ一ジや休息することで十分治癒していました。
しかし、文化の発展とともに病気は増え、医学が必要とされると、あん摩、お灸、鍼などが中医学として日本に伝わり、同時に漢方薬も普及していきました。
日本に漢方薬が伝わったのは約1500年前で古墳時代です。

当時は中医学の知識を駆使し、八法という方法で病気の治療をしていました。
八法には、汗法・温法・吐法・下法・清法・消法・補法・和法があり、患者の身体の状態(体質)や目指すゴール(治療の目的)を総合的に考えて、どの方法を用いるかを判断します。
「汗法」は汗をかかせる治療方法で、発熱などで体内に熱がこもっているときの解熱などのときに用います。
「温法」は体を温める治療方法で、冷えからくる諸症状を改善させるときなどに用います。
また、「生姜を取ると体が温まる」といわれますが、「汗法」で用いる場合は、生姜を強火で煎じたものを熱いうちに飲みます。
そうすることで一気に体温を下げて汗をかくことができます。
一方「温法」で用いる場合は、牛黄を弱火でじっくりと煎じたものを飲みます。
そうすることで、じんわり体の、芯から温めることができます。
「吐法」は、病邪が気管や食道、胃の上部などにある場合に、口から吐き出させる方法です。
「下法」は、邪が体内に入り込んでしまった場合に用います。
その方法は大便を通じさせることで、邪を排出させます。
吐法、下法ともに、体が虚弱な状態では用いることはできません。
「清法」は、熱性の疾患を治療する場合に用います。
清涼効果を持つ薬物によって治療します。
「消法」は、文字どおり消す方法で、気や血、痰、食などによって発生した体内の塊を治療します。
下法と似ていますが、下法はどちらかというと急性疾患に用いるのに対し消法は慢性の塊や・腫瘍などに用います。

「補法」は中医学の得意とするところです。
気血、臓臆などの虚弱を補い、機能を回復させるときに用います。
「和法」は、体全体を調和させる方法です。
例えば動悸のような脈象が出ている場介など、穏やかに調和させるときに用います。
この八法を基本に考え、それに適した生薬を用いて薬効を引き出していきます。
これが薬物療法の基礎となりました。
そして後に、例えば、生姜と唐辛子を合わせるとさらに効果が上がるといった「組み合わせの処方」も生まれました。これが漢方レシピ(薬膳)の起源です。
目の前の人の体がどのような状態なのかよく観察し、最善の効果が得られるよう組み合わせをアレンジしながら処方していたのです。

歴史から実際の診察までを徹底比較

中医学と日本漢方

「漢方」とは本来、日本独自の呼び方です。
江戸時代にオランダなどから入ってきた新しい医学「蘭方(らんぽう)」と区別してこう呼ばれるようになりました。
中国では「中医学」「中国伝統医学」と呼ばれています。
その違いを見ていきましょう。

●中国(殷):(前1500年)甲骨文字に医療に関する記述。

●中国:(春秋前600年)司馬遷の「史記」に伝説の名医、扁鵲の記述。

●中国(前漢前202~210年)「黄帝内経」陰陽五行説が基盤。医学理論の記述の原型成立。

●中国:(後漢100年)「神農本草経」365種の生薬の薬効を解説した薬物学書。薬物が人体に与える作用を「上・中・下」の3つに分けている。

●中国:(後漢210年)「傷寒論」張仲景によって書かれたと考えられている処方集。
現在は『傷寒論』と『金匱要略』の2書に分かれて伝えられている。
『傷寒論』には急性熱性疾患の処方が、『金匱要略』には慢性疾患の処方が解説されている。
「傷寒論」を書した張仲景

●日本:(大和・562年)呉の知聡(ちそう)が朝鮮半島経由で中国の医薬書をもたらす。

●日本:(飛鳥・660年)1月、新羅に腕の良い医者を求める。※1
同年8月、医者が来朝して19代・允恭(いんぎょう)天皇の病気をたちどころに治した。
古事記」によると新羅※2、から貢物を運んできた金 波鎭漢 紀武(こむ はちむかむ きむ)が大変薬に詳しい男で、この男の作った薬によって病気が治ったとされる。

/●中国(殷):(前1500年)甲骨文字に医療に関する記述。

●中国:(春秋前600年)司馬遷の「史記」に伝説の名医、扁鵲の記述。

●中国(前漢前202~210年)「黄帝内経」陰陽五行説が基盤。医学理論の記述の原型成立。

●中国:(後漢100年)「神農本草経」365種の生薬の薬効を解説した薬物学書。
薬物が人体に与える作用を「上・中・下」の3つに分けている。

●中国:(後漢210年)「傷寒論」張仲景によって書かれたと考えられている処方集。
現在は「傷寒論」と「金匱要略」の2書に分かれて伝えられている。
「傷寒論」には急性熱性疾患の処方が、「金匱要略」には慢性疾患の処方が解説されている。
「傷寒論」を書した張仲景。

●日本:(大和446年)外国人医師の渡来。

●日本:(大和456年)朝鮮半島経由で医薬書や生薬伝来。

●中国:(隋600年~701年)世界最古の国立医学教育檎関「太医署」が設口される。

●日本:(飛鳥600年~)遺時使や遣唐使により中国から多数の医薬書渡来。/

●日本:(奈良660年)允恭天皇は即位3年1月、新羅に腕の良い医者を求める。同年8月、医者が来朝して天皇の病気をたちどころに治した。『古事記』によると新羅から貢物を運んできた金 波鎭漢 紀武(こむ はちむかむ きむ)が大変薬に詳しい男で、この男の作った薬によって病気が治ったとされる。※1

●日本:(奈良701年)大宝律零制定。

●日本:(平安918年)深根桶仁、「本草和名」を著す。日本現存最古の薬物書)。

●日本:(平安984年)丹波康頼「医心方」を著す(日本現存最古の医学全書)。

●日本:中国医学を模倣しながら独自性も→古代中国の医学に比較的忠実。

●中国:(金1107年~1110年)官営薬局の処方集「和剤局方」編纂。

●中国:(金1200年)金元医学理論の登場(金・元時代、明代にも継承される)。

●日本:(鎌倉1200年)医毎の担い手が宮廷医から禅僧へ。

●中国:(元1300年)金元の四大家(劉完素、張子和、李束垣、朱丹渓)が現れ、伝統医学に新たな方向性。

●日本:(室町1300年)李朱医学を輸入、日本むきにアレンジして広める(のちに「後世方派」と呼ばれる)。

●中国:(元1368~1912年)「弁証論治」の治療法確立。/

●中国:(清1642年)温病学理論登場。/

●日本:(江戸1603年)江戸幕府成立。

●日本:(江戸中期1698年)田代三喜、明から帰国。最先端の中国医学を伝授。

●日本:(江戸中期1698年)南蛮「ポルトガル」医学伝来(鉄砲などと共に)。

●日本:(江戸中期1574年)曲直瀬道三「啓迫集」を著し、当時の中国の最先端医学を広める。

●日本:(江戸後期1600年)名古屋玄医、後妻艮山ら「傷寒輪」への回帰を唱える(のちに「古方派」と呼ばれる。現在の日本漢方の主流)。/

●中国:(清1700年)葉天士(1667~1746年)は名を桂、字を天士、号を香岩(別号は南陽先生)と称し、江蘇呉県の人であります。清代の傑出な医家で、温病学を創始した一人として、その名を知られた医家です。/

●中国:(清1800年)清代、呉鞠通の『温病条弁』温熱・湿熱分類が温病の弁証治療に対して重要で、複雑な物事の処理を簡潔化した臨床指導意義を発揮する。/

●日本:(江戸後期1762年)吉益東洞「万病一毒説」を唱え、日本漢方の軸になる「方証相対」の概念を形成。

●日本:(江戸後期1774年)「解体新書」出版。オランダ医学の輸λが活発に。諸派の長所を取り入れた「折衷派」現る。

●日本:(江戸後期1804年)華岡青洲、麻酔に「通仙散」を用いて乳がん手術成功。/

●日本:(江戸後期1823年)シーボルト事件

●日本:(明治1868~1912年)明治時代の期間。

●日本:(明治1868~年)西洋化政策による漢方の衰退。

●日本:(明治1868~年)西洋医学(ドイツ医学)を基本とし、「医術開葦試験」を導入。

●日本:(明治1868~年)医師免許制度の一本化。

●日本:(大正1894年)浅田宗伯没、漢方の伝統断絶。

●日本:(大正1910年)和田啓十郎、「医界之鉄推」を著し、漢方医学の復興運動始まる。

●中国:(清1910年)清代末、西洋医学の導入が盛んに「中西進通派」出現「中医廃止令」を布告。

●中国:(清1910年)伝統医学の統合整理。

●中国:(中華人民共和国1927年)西洋医学と伝統医学が対等に位置づけられ、中国漢方の教育制度、理輪整理、体系化が進む。

●日本:(昭和1927年)湯本求真、「皇漢医学」を著す。

●日本:(昭和1944年)エキス製剤、板倉武博士により開発(その後1950年代から研究が進み、製薬会社が高品化)。/

●日本:(昭和1945年)太平洋戦争・終戦/

●日本:(昭和1950年)大塚敬節らの尽力で「日本東洋医学会」設立。

●中国:(中華人民共和国1950年)現代中医学成立(1950年代)。

●中国:(中華人民共和国1956年)4都市に中医学院が創立され、大学での教育開始。

●中国:(中華人民共和国1966年)文化大革命(~1976年)により、診療・教育・研究檎関で打撃を受け、一時ブランクが発生。/

●中国:(中華人民共和国1971年)キッシンジャー随行記者のグローバルな鍼灸治療発生。

●日本:(昭和1972年)北里研究所内に公的研究機関として初の東洋医学総合研究所割立。

●日本:(昭和1976年)医療用漢方エキス製剤、大幅な薬価基準収載が行われ、医毎保険に本格適用。

●中国:(中華人民共和国1978年)文革後、中医学教育の正常化が推進。

●日本:(昭和1979年)富山医科薬科大学(現・官山大学医学部)病院に国立大学病院初の和漢診療室設置。

●中国:(中華人民共和国1986年)中華中医薬学会(旧称・中華全国中医学会)設立。

●中国:(中華人民共和国1986年)WHOが鐵灸の適応症として43種の病気を発表。

●中国:(中華人民共和国1986年)国家中医管理局(現・国家中医薬管理局)が設立。

●中国:(中華人民共和国1990年)「老中医500人の経験を継承する募集」が始まる。

●中国:(中華人民共和国1991年)「中医学と西洋医学を同等にi視する」方針が憲法に記載。/

●日本:(昭和1983年)ツムラ薬理研究所・生産技術研究所を分離・設立。

●日本:(昭和1991年)日本東洋医学会、日本医学会に加盟。

●中国:(中華人民共和国1993年)北京・上海・南京・成都の各中医学院がそれぞれ中医薬大学に昇格。

●日本:(平成2001年)文部科学者の医学教育カリキュラムに「和漢薬を概説できる」の項目が採用。

●日本:(平成2004年)全国80の医科大・医学部全てで漢方の授業が実施。

●中国:(中華人民共和国2008年)中医薬大学は7カ所、中医薬学院は21カ所となる。

●日本:(平成2008年)漢方科の標樗が認められる。

●日本:(平成2008年)生薬の国産化進む。

※0:即位3年は、西暦660年にあたります。//

※1:即位3年(西暦660年)1月、新羅に腕の良い医者を求める。同年8月、医者が来朝して允恭天皇の病気をたちどころに治した。
『古事記』によると新羅から貢物を運んできた金 波鎭漢 紀武(こむ はちむかむ きむ)が大変薬に詳しい男で、この男の作った薬によって病気が治ったとされる。

※2:新羅(しらぎ/しんら、シルラ、前57年 – 935年)は、古代の朝鮮半島南東部にあった国家。
当初は「斯蘆」(しろ、サロ)と称していたが、503年に「新羅」を正式な国号とした。
朝鮮半島北部の高句麗、半島南西部の百済との並立時代を経て、7世紀中頃までに朝鮮半島中部以南をほぼ統一し、高麗、李氏朝鮮と続くその後の半島国家の祖形となった。
内乱や飢饉で国力を弱体化させ、高麗に降伏して滅亡した。

日本最古の医学書「医心方」、丹破康頼によって編纂された
テレビドラマ「キイハンター」「Gメン175」などで知られる俳優・丹波哲郎は、丹波康頼の子孫です。

日本漢方の基盤となる概念を形成した吉益束洞、(日本大学医学部図館所蔵)

漢方の歴史

江戸時代に独自の江日本漢方が発展日本に漢方の医学書が伝来したのは、556世紀ごろ。
その後、中国に渡った遣階使や遣唐使が最先端の医学知識や書物を日本に持ち帰りました。
平安時代には日本独自の医学を模索する動きが起こり、丹波康頼が日本最古の医学書『医心方』を編纂。
さらに江戸時代にはさまざまな流派が出現し、日本独自の漢方が発展します。
古方派の吉益東洞は、現在の日本漢方においても軸となる「方証相対」という概念をつくりました。
明治維新を迎えると医師免許制度の施行で西洋医学が台頭。
しかし徐々に見直され、1967年には漢方の四つの処方に保険適用が認められるようになったのです。

左漢方の中に西洋医学を取りλれ、全身麻酔による乳がんの手術に成功した華岡青洲右明治時代、漢方存続のために尽力した浅田宗伯/

※シーボルト事件とは
1828年、シーボルトが帰国する際、国防上の理由から持ち出しが禁止されていた「大日本沿海輿地全図」の写しを所持していることが発覚しました。
この地図は日本の正確な地理情報を含んでおり、幕府はこれを国家機密と見なしていました。
シーボルトは地図を没収され、1829年には国外追放の処分を受けました。

総論

西洋医学が日本に伝わったのは、江戸時代中期のころです。
以来、日本が新しく接した西洋医学は「オランダ(和蘭陀)の琴宗{=「蘭方」と呼ばれ、対して従来の日本の医学は「漢方」と呼ばれるようになりました。

漢方は、古代中国にルーツをもちながら、長らく日本で独自の発展を遂げてきた医学で、現在の中国の伝統医学(中医学〕と必ずしも同じではありません。
中国の医学が日本に伝わりはじめたのは、朝鮮半島を経由して文物がさかんに流入した5~6世紀のことです。
古くはr日本書紀』にr新羅から招いた医師の治療師の治療により天皇切病が治った」という記述があります。
古墳~奈良時代にかけては建築+造船・暦(天文学)1政治制度1工芸といった先進の技術・文化が百済や新羅など朝鮮半島を経由してもたらされました。
その後は遣晴使・遣唐使が中国から直接持ち帰るなどし、さまざまな文物が日本に伝わりましたが、当時の中国医学や薬の知識も、そうして日本に伝わった先進技術の一つです。

正しい知識といっても、漢方薬をはじめとした中医学を取り巻く世界は、すべてが自然の道理に基づいて説かれている至ってシンプルな学問です。
その内容は、一般的な常識や万人が日常の当たり前のこととして認識していることばかりです。
自然の道理に基づいた原理さえつかむことができたら、漢方薬の処方の幅が広がるだけでなく、薬学や看蔑、介護などの医療分野だけでなく、アロマなどを使った健康轍進や、日常生活では予防や健康維持にも応用することができます。

中国医学の形成と「三大古典」の成立

中国では漢代に医療の経験や知識が体系化され、三大古典が成立しました。
その一つ、「黄帝内経』は、陰陽五行説に基づく医学理論書で、生理や病理などの基礎医学と、診断や鐵灸治籏などの臨床医学が論じられています。
「神農本草経』は、個々の生薬の薬効を解説した現存最古の中国の薬物学書。
「傷寒論」は複合生薬処方による治療法が吾かれた書で、現在の漢方の基礎になっています。

遣階使・遣唐使による中国医学の輸入

日本に中国医学が本格的にもたらされたのは大和時代。
医薬書は朝鮮半島経由で届き、百済の医師も来日。
飛書時代後半には遺蹟使や辻店使によって大量の医薬書が中国から直輸入され、それらを学ぶことで日本に医学文化が形成されていきます。
平安時代(984年)には、輸入医薬書をべ-スに日本の風土や晴好も加味した、日本に現存する最古の医学全書「医心万」全30巻が編纂されました。/

「金元の四大家」活躍百花績乱の学説

中国では宋代に印刷技術が発達し、医薬書が普及します。
続く金天元時代には、「金元の四大家」と呼ばれる劉完素、張子和、華東垣、朱丹渓が現れ、三大古典の理論を整理して新しい学説を提唱。
明代に引き継がれる新たな方向性を開きました。
彼らはそれぞれ特色ある体系を打ち出し、多くの新処方を考案。
現代もよく用いられる防風通聖散は劉完素、補中益気湯は李東垣が編み出したものです。

明留学医師による最新医学の導入

室町時代、日本は明と活発に交易し、明に留学する者も現れます。
彼らは帰国後、日本の医学界をリードしました。/


また、国内にも明の最新医学を基礎として独自の医学大系をつくり、後進の育成に努めた戦国時代の名医、曲直瀬道 三がいました。
中国の医学書整理して『啓迫集』など多くの医学書を著し、中国医学を日本に根づかせました。
彼らは後に、「古方派」に対して「後世方派」と呼ばれます。/

明~清代、学説の統合化と簡易化

明代の中国では、金-元時代に登場したさまざまな学説を発展させた医薬書が数多く世に出ました。
その一つ、従来の薬物学を集大成した李時珍の「本草絹目』は、現代にも多大な影響を及ぼしています。
清代には、傷寒とは別系統の熱病である温病の研究が進み、現代中医学の一部をなす温病学理論が登場。
その一方で、複雑化した研究分野をまとめて簡潔にする動きも生まれています。

江戸中期の古方派、中国医学を日本化

江戸中期、日本では「傷寒論」を原典として重んじる一派が生まれます。


これが日本独特の「古方派」で、代表は名古屋玄医(なごやげんい)、後藤艮山(ごとうりょうざん)、香川修庵(かがわしゅうあん)、山脇東洋(やまわきとうよう)、吉益東洞(よしますとうどう)。

なかでも吉益東洞は陰陽五行説を否定し、病気はすべて一つの毒に由来するという「万病一毒説」を唱え、毒の場所を診断する方法として腹診を重視し、症状に処方を合わせる「方証相対(ほうしょうそうたい)」という手法を開発しました。

柔軟姿勢の折衷派が登場

古方派の考え方は急速に浸透しました。
しかしやがて、治癒に役立つなら学派を問わずに長所を取り入れようとする医師たちが現れます。
柔軟姿勢の彼らは「折衷派」と呼ばれました。
一方、『解体新書」の出版を機にオランダ医学の導入が盛んになり、これとの融合を図る「漢蘭折衷派」も登場。/


その筆頭が華岡青洲です。
青洲は生薬による麻酔薬を開発し、世界初の全身麻酔による乳がん手術に成功しました。/

明治の漢方衰退と存続運動

明治政府は国としてドイツ医学を採用し、漢方は医学教育からはずされます。
また、ドイツ医学の知識を問う「医術開業試験」も実施し、その合格者しか新たに医師になれなくなりました。

浅田宗伯


浅田宗伯(あさだそうはく)ら漢方医たちは猛反発し、結社をつくって漢方存続運動を展開します。
しかし1895年、帝国議会において漢方存続を訴える医師免許規則改正法案が僅差で否決され、漢方は一気に衰退していきます。

「中医学」と西洋医学、共存を選んだ中国

第2次世界大戦後に成立した中華人民共和国は、伝統医学の名称を「中医学」とし、西洋医学との共存の道を選びました。
新たに作った中医学の教科書では、複雑だった伝統医学の理論を統合、簡略化しました。
これが現在の「中医学」で、もともとの中国伝統医学とは異なる点があります。
中医学は文化大革命(毛沢東など)の時代に打撃を受けますが、その後の政府は中医学復具を後押しし、現在にいたっています。

昭和の漢方復興から現在の完全復権へ

正統的な医学としての地位を失った漢方は、民間で細々と伝えられていました。
そんななか、和田啓十郎が漢方の優秀性を説く「医界之鉄椎」(いかいのてっつい)を出版しました。
これをきっかけに漢方復興の機運が生まれ、昭和に入ると医師の漢方への関心が次第に高まっていきます。
1976年には漢方エキス製剤が健康保険適用(小太郎・ツムラなど医療用)となり、広く医康の現場で用いられるようになりました。
こうして漢方は完全復権を果たしました。/

日本の漢方・昔と今の状況と展開

■室町時代に集大成される

日本の漢方は室町時代に始まるといわれます。
それは田代三喜など、当時、留学を終えて明から帰朝した医師たちが中国医学を集大成し、わが国に広めたからです。
それ以前にも、遣隋使・遣唐使などによって中国医学がもたらされていましたが、要するに、室町時代になって輸入医学が日本漢方として体系化されたということです。
ところで漢方とは、漢方薬を用いた療法だけのことなのか、それとも鐵灸・按摩も含めた療法をさすのか、という問題があります
あるいは、日中伝統医学全般を言う場合もあります。
しかし、普通ただ漢方といえば、中国から伝わり、日本化された伝統医学であり、漢方薬を用いた療法ということになろうかと思う。
なぜ、漢方の定義にこだわろかは、現在の中国伝統医学と日本漢方とは根は同じでも、それぞれ独自の発展を遂げて双方にかなりの差異がみられるからです。
中国では、中華民国の時代に、明治時代のわが国と同様西洋医学が多いに取り入れられ、伝統医学がすたれていった。
それを復活させたのが毛沢東だ。
中華人民共和国政府の指導によって伝統医学の統一教科書が編纂され、中医学理論が確立しました。今日にいたっています。
中医学とは、現代中国の伝統医学のことです。
日本の漢方は、室町末期から安土桃山時代にかけて活躍した曲直瀬道三によって、しっかりと根づいた。
道三は日本医学中奥の祖といわれる名医で、田代三喜に学び、金元、明の医書を取捨選択して多くの著書を残し、漢方の普及に貢献しました
道三の医学は江戸時代前期に盛んに行われ、この流派を後世方派と呼んでいます

■「傷寒論」を重視した古方派

江戸時代中期になると、漢方は「傷寒論」を最重視する流派が主流となる。
「傷寒論」は3世紀の初めごろ張仲景が著した「傷寒雑病論」に収録され、「金匠要略」と対をなす医書です。
「傷寒論」では傷寒という急性熱性病を扱い.よく知られている葛根湯や小柴胡湯などの処方が記載されている。
「金匠要格」は慢性病や難病の治療法を扱った医書で、六味地黄丸や当帰芍薬散などは、本書の処方によるものです。
これらの張仲景の処方は、非常に優れたもので、中国においても、歴史的に湯液(煎じ薬)療法の規範となるほど高い評価を得た。
わが国でも、古方派が「傷寒論」を高く評価したわけです。
この古方派の中でひときわ有名な医師が吉益東洞です。
東洞は「万病一毒説」を唱え、毒を以て毒を制する攻撃的な治療法を行い、それで治らずに死亡すろのは天命だと断じた。
また彼は、陰陽五行説などの中国自然哲学の概念を一切否定し、病症を処方名で相対させる「証」という概念を確立し、日本の漢方に大きな影響を与えている。/

※■グローバルな鍼灸治療への流れ

1971年アメリカの大統領顧問、キッシンジャー氏に随行してニューヨークタイムズのレストン記者が中国の北京に滞在したとき、急に体調を壊して、激しい痛みの「急性虫垂炎」になりました。

そこで、中医の、「鍼」による腰椎麻酔で手術を受け、術後の痛みも「灸頭鍼」という鍼治療でよくなって、さらにその後の再発もなかったことから記者は西洋医学とまったく違う不思議な初体験の治療の経験、その世界に感心して帰国後「鍼治療」の記事を書きました。

それがセンセーションを巻き起こしグローバルにこの治療、分野が注目され評価をえられることになりました。
今や世界鍼灸学会連合会があり、国際学会がひらかれるようになりました。(1987年に北京で、第一回世界鍼灸学術大会以後、毎年のように世界の都市で)

日本の明治時代、西洋医学が先進的と礼賛されるようになって、医療類似行為ぐらいに追いやられた中医の世界が、再び外圧によって見直される端緒のできごととなりました。

レストン記者が世界に知らしめた「鍼麻酔」は、「モルヒネ仮説」誕生の契機となったのです。

世界保健機構(WHO)も鍼灸を奨励するながれとなり、「Acupuncture and moxibustion」として、欧米に鍼灸師や鍼灸をする医師がでてきました。

■漢方エキス剤により普及

明治時代になると、漢方は受難の時代を迎えました。
近代化を急ぐ明治政府は、西洋医学を普及させるために漢方を抹消しようと図りました。
しかし、日本漢方の灯は消えなかったです。
一部の人々によって細々と伝えられた漢方は、昭和になって再び脚光を浴びました。
そして今日では、国立大学に東洋医学の研究機関と診察部門が設けられるまでになりあした。
現在、大学病院や公的病院の東洋医学外来は患者があふれるほどの盛況です。
西洋医学では治らない慢性病の患者が詰めかけるからです。
これら東洋医学外来で用いられている漢方薬は、煎じ薬ではなく、健康保険が適用されるエキス剤がほとんどです。
漢方エキス剤とは、最先端の技術と設備で生薬(自然の薬用植物の有用部位を乾燥させた薬の原料)を煎じて乾燥させ、穎粒状に精製したもので、わが国独自の漢方製剤で
もあります。/


いまや漢方薬といえば煎じ薬ではなく、エキス剤と思えるほど広く使用されるようになりました。
エキス剤がこれほど普及したのは、煎じる手間が省け、薬剤の品質が均一になり、しかも服用しやすいメリットがあるからだと思われます。
本来、漢方薬は生薬を組み合わせて処方したものを煎じて服用するものですが、煎じろ手間が大変で性急な現代人にはマッチしないのです。
また、生薬の鑑定や品質管理に長年の経験と特殊な技術を必要とするため、煎じ薬では漢方薬を扱える医療機関は非常に限定されます。
「エキス剤の品質は所詮生薬と同じではない」と批判する向きもありますが、なんといっても煎じ薬はエキス剤の簡便さと再現性にはかなわないようです。
ところで、よく「漢方薬は自然のものだから副作用がなく安全」という声を聞きますが、必ずしもそうとは限らない。
確かに、西洋医薬のような副作用は極めて少ないのは間違いないが、用法を誤ると、湿疹、下痢などの副作用を伴うことが少なくないです。
また「漢方薬は慢性疾患にはよく効くが急性疾患には効かない」と信じている人もいますが、診断が正確だと、急性疾患に対しても、じつに劇的に効くことが多いものです。

ツムラは、ツムラ漢方製剤エキス穎粒(医療用)により、高齢化社会の深まりつつある現実の治療に貢献しつつ、漢方製剤の科学的な実証を通じて、21世紀に至る長寿社会の治療手段としての役割をはたしていきたいと願っております。

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